Act:036

「待たせたな」
 ラグナのもとへ戻るなり、セイルは馬に跨がった。そのまま先へ進もうとすれば、案の定ラグナが口を開く。
「あの、客人というのは……」
「お前に薬を渡した男だ」
 ラグナは何か得心がいったような声を漏らす。何か言葉を継ごうとしたが、それはセイルに阻まれた。
「勘違いするなよ、あの男は知り合いというほどの仲ではない。とにかく、二度とあの男の薬は飲むな。良いな」
 セイルはわざと語気を強めた。これ以上あの男の事を聞かれるのはごめんだったのだ。あの男を思い出すと気配まで思い出してしまう。今のやり取りでさえ、手綱を握る手には汗が滲んでいる。
 ラグナはそんなセイルの様子に気付いたのか戸惑いながらも頷いたっきり何も聞いてこなかった。セイルはそれを確認すると馬の腹を挟んだ脚に力を込めた。馬は道沿いを進もうとしたが、手綱によって森の中へ導かれていく。
「セイルさん、そっちは王都じゃありませんよ。それともまた客人ですか?」
 ラグナの忠告は全く効果がなかった。セイルは「いいから少し付き合え」とだけ言うと森の奥へ奥へと進んでいく。洞窟の時のように先に行ってさえしまえばラグナは付いて来る筈だ。しかし、後ろから聞こえてきたのは落ち葉を踏む音でも、蹄が枝を折る音でもなく、ラグナが馬を宥める声だった。どうやら馬が顔に枝が当たるのを嫌がっているらしい。セイルの馬は村で一番良い馬だったためかそのようなことはないのだが。
「どこまでも世話の焼ける……」
 セイルは手近な枝を折ってラグナに投げた。
「それで払ってやれ」
 ラグナは軽くお礼を述べると馬の顔近くの枝をどかす。順調に進み始めたのを見てセイルも進もうとした時、下から視線を感じた。セイルの馬がこちらをじっと見てから枝に向かって首を上下に振る。
「……ああ。わかったよ」
 セイルは再び枝を折り、自分達の前の枝を払う。
「満足か?」
 問い掛けると馬は鼻を鳴らしてそれに答えた。

 進み始めて間もなく、辺りの空気が変わった。今までの誇りっぽさから打って変わって、故郷に近い澄んだ空気が漂っている。
 セイルは流行る気持ちを抑えながら馬を進めた。空気が徐々に変化していくにつれて、この辺りの空気は故郷というより昔大賢者と過ごした場所に近い事に気付く。同じ人間界なのだから当然といえば当然なのだが、水の都と名高いあの場所にこれ程近い場所があるとは思ってもみなかった。更に進むと森が急に開け、さほど大きくない泉が現れた。周りには背の高い木が生えていたが、泉の周辺だけには充分な明かりが差し込んでいる。
「綺麗な泉ですね」
 溜め息交じりにラグナが呟く。水の精霊であるセイルが見ても美しい泉だ。人間からすれば秘境と呼んでも良いくらいだろう。
 懐かしく、愛おしく、しかし胸を締め付けられるような空気。
「セイルさん?」
 どれほど立ち止まっていたのか、いつの間にか馬を降りていたラグナがこちらを心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫ですか? どこか具合でも?」
「あ……ああ、大丈夫だ。ラグナ、悪いが少しここで休ませて貰う」
 ラグナは矛盾する答えに眉を潜めた。
「それは構いませんがもう少し行けば村に着きますよ? 休まれるならちゃんとした場所の方が……」
「いや、ここで良い。ここでなければ意味がない」
 セイルは馬から降り、泉にゆっくりと歩み寄った。近寄る程に空気は軽くなっていく。深く息を吸えば体中を冷たい空気が満たす。
「私達精霊族は環境に敏感でな。土地や空気が変わっただけで体調を崩したりするのさ。特に精霊界以外だとそれが顕著に現れる」
 セイルは靴を脱いで泉に一歩踏み込んだ。水は随分冷たかったが、その冷たさすら心地好い。
「じゃあ今まで無理を?」
「いや、この辺りは自然が多いからそれほどではない。ただ、人間が生活すると 必然的に水は汚れる。私のような水の精霊族は、綺麗な水がないと充分な力が出ないんだ」
 セイルはラグナの質問に丁寧に答えながら、泉の淵の岩に腰掛けた。そして子供が水遊びをするように水を蹴り上げる。
「王都に近付けば人口も増える。そして、それだけ水も汚れているだろう。だから今のうちに少しでも綺麗な水に触れておきたいんだ。そうすれば、王都に着いた後も持つだろう」
 それに、と続けながらセイルは懐から青い宝玉の付いたネックレスを取り出す。
「これも随分と力を失ってしまったからな」
 リヴァイアサンの召喚に槍の媒体としての使用。度重なる魔力の消費のせいで宝玉は本来の輝きを失っていた。
 セイルは服が濡れるのも構わずに更に泉の中へと入る。そのまま暫く泉の中を歩き回っていると、水が足を擽ってくる場所があった。セイルは一カ所水がの湧き出ている地点を探し当てるとそこに宝玉をそっと沈めた。
「もしかしてそれ魔石ですか?」
 流石のラグナでもそれくらいは知っているようだ。魔石――魔力を蓄える石。一部の鉱山から取れ、上手く使えば魔術の使えない人間でも魔術が使えるようになる。
 純度の高い魔石には大量の魔力を蓄える事が出来るので、術者の負担を減らすことも出来る。術の性質上、精霊族には重宝されているのだが、セイル自身は滅多な事では使わないと決めている。魔石には使用限度があり、寿命を迎えた魔石は砕けてしまうのだ。この魔石だけは壊したくない。例え、己の命を削るとしてもこれを失う訳にはいかない。
「人間界で魔石は随分高価だった気がしたが、今もそうなのか?」
「ええ。産出量はそれなりにあるんですが、純度が低い上に脆い物が多いので」
 更に言えば魔石には魔獣が引き寄せられるので採掘は危険と隣り合わせだ。必然的に値段は跳ね上がる。
「持っているのはお金持ちに雇われている術師くらいですね」
「そうか。余裕があれば買っておこうと思ったんだが、普通の人間が買ったら目立ってしまうな」
 なら尚更ここでの休息が重要だ。その旨を伝えると、ラグナはぽつりと呟いた。
「精霊族って凄い種族だってイメージがあったんですけどいろいろ大変なんですね……」
 長命、博識、自然を操る。それが人間の抱く精霊族の典型的なイメージらしい。実際は単に長命だから知識が多いだけで、命を削る術を使い、繁殖力が低いから長命でないと釣り合いが取れないだけだ。
「まあな。だが、こういった体質があるからこそ、人間界はお前達の物なんだ」  昔から世界は上手く造られていると思う。
「……でも、それじゃあいつまで経っても、精霊族と仲良くなれないんじゃないですか?」
 またこの男はあの人と同じような事を言う。
『人間も精霊も他の種族も、皆仲良く出来れば良いのだけどね』
 大賢者は何かある度に決まってそう言っていた。そして、その後には必ずこう言う。
『そうなれば私はただのオルガでいられるのに』と。