Act:037


「本日よりこちらでお世話になるセイルと申します。よろしくお願い致します」  そう言って少女は気真面目に礼をした。まだどの属性にも染まっていない事を 示す白髪の精霊は、外見こそ幼いものの、物腰には軍人にも似た堅さがある。
「こちらこそ、よろしくお願いしますね。セイル」
 それとは対象的に、男は春の陽気の如く柔らかに微笑んだ。
「暫く、のんびりすると良い。向こうじゃそんな暇なかっただろうからね」
 男が少女の目を覗き込むと、気まずいのか気恥ずかしいのか、それともただ顔 を見たくないだけなのか、少女は視線を床に落とす。
「これは時間がかかりそうかな……」
 こうして、二人の生活は始まった。

「大賢者様は神子でいらっしゃると伺いましたが」
 世界には神子と呼ばれる者達がいる。彼等が神に仕えているという話が事実な のかは解らない。しかし、神子――すなわち神の子と呼ばれる程に絶大な力を持 っているというのは事実である。
 そして、この春の陽気のように和やかな男は世界に数人しかいないという神子 の一人、“大賢者オルガ・マンドヴィル”その人であった。
「皆がそう呼んでいるだけです。そんなに堅くならなくて良いんですよ?」
 しかし、本人はそれをたいした事だとは思っていないらしい。そのせいか、世 界に名だたる大賢者というより、ただの人が良いだけの平凡な男といった感じす らする。
「私はいつもと変わりません」
 対するセイルは仏頂面で抑揚の少ない声。ここまで子供らしさのない子供も珍 しい。
「全く、彼はどんな――おっと失礼。これは君に言う事じゃないね」
 オルガは口許に手を当てコホンと咳ばらいをした。
「ならもっと砕けた方が良い。せめてここにいる間くらいは、ね?」
 オルガはそう言って微笑んだが、セイルの表情は崩れはしない。
 大賢者は今まで解いたことのない難問にでも突き当たってしまったかのように 、小さく唸りながら皺の寄った眉間に人差し指を突き付けた。

 セイルがオルガと暮らすようになって一週間あまり経ったある朝。オルガが朝 食を用意しているとセイルがばたばたと階段を駆け降りてきた。
「オルガ様……どうしよう……!」
 オルガのもとに駆け寄るなり、セイルは泣き出しそうな顔をで訴えた。普段か ら落ち着き払っているセイルがここまで慌てるのは初めての事だ。
「どうしました、そんなに慌てて」
 オルガはセイルの背に合うよう屈み、ゆっくり髪を撫でようとして手を止めた 。
 ほんの僅かだがセイルの髪が青くなっていた。昨日まで白かった髪が空の色に 染まっている。
「私……髪が……水の精霊になってしまって、その、父に何と言えば――」
 精霊族の髪の色。それにはこの気位の高い少女を文字通り青ざめさせる程の意 味があった。
 彼女の髪は白あるいは黒でなければならなかった。そういう家系に生れついた 。それが他の色に染まるという事は、セイルの存在意義が失われるにも等しかっ た。
「それなら大丈夫ですよ。あなたの父上は知っていてここに寄越したのですから 」
 “知っていて寄越した”。それはつまり――
 更に青ざめたセイルにオルガは慌てて言葉を繋ぐ。
「そうではありません。直にまた白髪に戻れるから心配しなくて大丈夫ですよ」  その言葉はセイルを安心させる為の嘘ではなかった。だが、セイルの髪は色が 戻ることはなかった。