Act:035

 セイルは暫く森の中を歩いていたが、ラグナに声が届かない所まで来ると足を止めた。
「わざと気配を漏らすのは止めて頂けませんか。申し訳ありませんが、気が散ります」
 何処へでもなく声をかけると、背後の木の陰にはっきりとした気配が現れる。威圧的で挑発的な、それでいて研ぎ澄ました刃のように精錬された気配。
「失礼な奴だな。邪魔者扱いするなよ」
 言葉と同時に、彼は目の前に現れた。セイルは反射的に後ろに退こうとし――寸前で止めた。ここで退いて、またあの意地悪い笑みを浮かべられるのがどうにも釈だったのだ。代わりに頭一つ半は高い相手を睨み付ける。
「貴方の気配に当たると疲れるのです。魔獣の気配を探ろうにも気になってそれどころではないですし。調節出来るのでしたら、もう少しやんわりした気配を出す事は出来ませんか?」
 セイルの要求に応えようとしてなのか、男――ロフトは気配をころころと変えて見せた。だが、そのどれもが鞘にはなっていない。
「わりい、無理だわ」
 果たして本当なのか、またかわれただけなのか。何にしても、抜き身の刃を目の前にちらつかされては、いくら傷付けないと言われても無視する事はできない。それがフィクルならまだしも、この男なら尚更だ。
「なら、ずっと消していて頂きたいものですね。ラグナに渡した薬でも飲んでは如何です」
「やっぱ分かってたか」
 ほぼ確信は持っていたものの、セイルは内心溜め息を付かずにはいられなかった。ラグナも厄介な男に関わってしまったものだ。
「いけなかったか?」
「いえ、むしろ感謝しています」
 あの薬がなければ今頃ラグナは無事ではいられなかっただろう。それに関しては素直に感謝している。
「そうだろそうだろ。あれはうちの薬師が作ったとっておきだからな」
 出来の良い息子の話でもするようにロフトは軽く胸を張る。この時ばかりはロフトがやけに人間臭く見えた。
「ロフト様。あの薬、ラグナ以外に渡しましたか」
「いや、あれはまだ試作品だからな。効力はせいぜい数時間が限界だし、いつ切れるかわからねえ。ちなみに、ねえとは思うが副作用は不明だ」
 この男なら誰彼構わず薬を渡していそうだったのだが、どうやらそうでもないらしい。
 それにしても、そんな危なっかしい試作品を渡す方も渡す方なら使う方も使う方だ。戻ったらラグナに一言注意しておいた方が良いだろう。
「まあ俺等やオルガ達は薬なんて飲まなくても無期限で気配消せるんだけどな。あとはそうだな……死人も気配ねえだろうな」
 台本が用意されているかのようなわざとらしい口調。どうやら彼はセイルを舞台に上げたいらしい。
「死人ですか……確かにあの女に刺された時、殺気らしい気配は感じませんでした。ですが、アメス村で会った時あの女からは殺気を感じましたし、最初に会った時も気配がない訳でもなかったのですが」
「誰もそいつが死人だなんて言ってねえだろ」
 ロフトは待ってましたと言わんばかりに口を挟んだ。細められた目と僅かに上がった口元が芝居らしさをさらに誇張する。
「お前、自分に剣が刺さった瞬間見てねえんだろ? 他にいたかもしれねえじゃん?」
「……ディラルド、ですか?」
 答えはすぐに思い当たった。アメス村で、紫髪の女の近くにいきなり現れたあの男。あの時は女の殺気に気を取られていて潜んでいた男の気配に気付かなかっただけだと思っていた。しかし、それが女の殺気に気を取られていたからではなく、元から感じられなかったからだとしたら。セイルを刺したのが死人である男の方で女はただ見守っていただけだとしたら。
 気配のない敵。相手にするのに厄介な事この上ない。王都に着くまでに何か対策を練る必要がありそうだ。
「それ以上は俺からは言えねえな。俺はあくまで傍観者だから」
 ロフトはそう言うが、恐らくこれがこの舞台の筋書き。その証拠にロフトは実に満足そうな顔をしている。
「参考になりました。ありがとうございます」
 またこの男に助けられた。だが、この男には出来る限り借りは作らない方が良いだろう。いつか精算として何を持ち出してくるかわかったものではない。
「ついでに一つ教えてやる。この先を北に行くとなかなか綺麗な泉があるぜ。静かだし、昼寝するには最適だ」
 注意した傍からまた一つ借りが増える。だが、この情報はセイルにとって借りを作る価値が充分にあった。
「それは良い事を聞きました。ありがとうございます」
 セイルが礼をして頭を上げると既にそこにロフトの姿はなかった。