Act:027

 鈍い音に恐る恐るドアの方に目をやると、床に赤い染みが垂れていた。染みは時を増す毎に一滴ずつ増えていく。
 先程に冷めた気持ちは何処へ行ってしまったのか、セイルはその染みから目を離す事が出来なかった。鼓動が早い。耳鳴りがする。
「おい、何やってんだ」
 ドアの外から聞き慣れた声がした。今になってようやく帰って来た連れにも返す言葉がない。
「なあ、おい。何とか言えよ。何なんだよ、これは?」
 セイルは床を凝視したまま答えない。
「……めっちゃ痛えんだけど」
 その言葉にセイルは呪縛が解けたかのように顔を上げた。部屋の外に立っているのはフィクル一人。左手で短剣の刃を握りしめたまま、流れる血もそのままに立ち尽くしていた。
「俺がベッドメイキングの嬢ちゃんだったらどうすんだよ」
 被害者はあからさまに怪訝な顔を作ってみせた。セイルは暫く茫然とそれを眺めた後慌ててフィクルの手を取る。
 フィクルの手はざっくりと切れていた。いきなりの事のだったので、フィクルといえど叩き落とせなかったのだろう。利き腕で出血も多い。早く治療しなくてはとセイルは癒しの魔法を唱えたが、フィクルに手を振り払われ詠唱が止まる。
「じろじろ見んな。とっとと薬と包帯出せ」
 フィクルはベッドの上の荷袋を顎で指し示した。魔法の使えない彼はいつも治療道具を持ち歩いているのだ。
「何を言っている! 治療するから手を貸せ!」
「馬鹿。手の怪我くらいでお前の命削らせられっかよ」
 そう言って横を通り抜けたフィクルの腕を、セイルは己の指が白くなる程強く握った。
「私がやると言っている」
 フィクルはやれやれと言わんばかりに大きく溜息を付くと手を差し出した。
「田舎の小さな宿屋にベッドメイキングなんてサービスがある訳ないだろう」
 セイルは俯いたまま呟いた。そして、ここが田舎の宿屋であった事に心底感謝した。

「で? 気配丸出しの俺に気付かない程に何を考えてたんだ?」
 どうせろくな事じゃないんだろうけどな、とフィクルは笑いながら付け足した。
「別に……それにしても遅かったな。何をしていた」
 セイルは曖昧に返事をすると、話しを反らした。
「情報収集をね」
 フィクルは何も追求しない。それは有り難くもあり、逆に心苦しくもある。
「情報収集?」
 王都の場所は知っている。別段困った事もないこの状況で何の情報を集めていたのか、セイルには皆目見当がつかなかった。
「ああ、ここらに手頃な賞金首はいないかってな」
「まさか、狩ろうなどと言い出すのではあるまいな? お前の本業に付き合う気はないぞ」
 金ならまだ残っている。二人の手持ちを合わせれば王都に着くまでどころか、着いた後も足りなくなる事はない筈だ。
「いや、そうじゃなくて――」
 フィクルは何か言いたいようだったが、セイルはそれを遮った。
「シルエが戻って来た」
 セイルはそうとだけ告げると、フィクルの眼前に翳したままの手もそのままに己の精神の中に戻って来たシルエへと意識を移す。
(シルエ、何故戻らなかった。ラグナに何かあったのか?)
――それがね、ちょっと厄介な事になっちまったのさ。
 セイルには呑気な物言いの裏に隠された動揺が分かった。シルエも動揺を悟られたのに気付いたらしく、続きを問われずともその“ちょっと厄介な事”に至った経緯を話し出した。
――あんたがあたしにガキを任せた次の日の朝、あいつは目を覚ました。暫くはあんたを探してたんだが、そのうちアメス村と逆方向に歩き出してね。多分王都に行こうとしたんだろうねえ。
 ラグナの事だとは予想していたものの、まだ王都に行こうとしているとは思わなかった。
 セイルを見失ってしまえば、あの装備で王都に向かおう等という馬鹿な真似はしないだろうと踏んでいたというのに。あの馬鹿がとセイルは心の中で悪態をつく。
――気になったから隠れてあいつを見張ってたんだよ。そしたら、途中の村で山賊を退治してくれとか頼まれててね。きっと冒険者と勘違いされたんだろうさ。  聞かずともその先は安易に予想がつく。
(あのお人よしが……!)
――全くだよ。それが昨日の夜。そして今朝方馬を借りてどっかに走ってちまってね。途中まで追い掛けたは良いけど、この村の近くで見失っちまった。
(それで、戻って来たと)
――そういう事さ。
 セイルは大きな溜め息をつくと、どうしたものかと左手で顔を覆った。
(とにかく、ご苦労だった。暫く休んでいろ)
 シルエとの交信を切り、セイルは再び大きく息を吐く。溜め息にしては気合いが篭った息だった。
「フィクル」
 話に取り残されてぽかんとしていたフィクルは、セイルの機嫌を窺うような表情を浮かべた。
「狩りだ。但し、早急に済ます」
「……そう来なくちゃ」
 セイルは事務的な言葉と共に口の端を僅かに吊り上げるとフィクルも同様に笑みを浮かべた。