Act:026

(またか……)
 目覚めて早々セイルは頭を抱えた。徐々に掘り起こされる記憶。このまま過去を辿っていけばいつかあの日に着いてしまうという恐怖。
 夢のせいで気分は冴えなかったが、随分頭と身体が軽い。どれくらい寝たのだろうと陽を確認しようとして、ようやく自分が室内にいる事を思い出す。

 昨日、セイル達はまだ明るいうちに小さな村で宿を取った。人目を避けたいセイルとしては野宿をするつもりだったのだが、フィクルが無理矢理引っ張って来たのである。
『お前は顔に出ないからって無理し過ぎなんだ。見張りならしといてやるからしっかり寝ろ』
 フィクルにそう言われ、乱暴に布団を被せられて半ば強制的に眠りについたのだった。
 だが、部屋を見回してもその見張りの姿がない。荷物はそのまま置いてあるので直に戻って来るのだろうが、部屋を出て行った事にすら気付かった自分に腹が立った。
(油断し過ぎ……だな)
 そのお陰で久しぶりに熟睡出来たのも事実なのだが。
 フィクルに見張りを任せたまま徹夜をさせてしまったと申し訳なく思ったが、あの男なら神経を働かせたまま仮眠をとるくらいはしている筈だと思い直す。
 セイルは暇を持て余すのが何より苦手である。かといってこんな所で剣を振り回す訳にもいかないし、生憎本も持って来ていない。
 とりあえず、連れが戻るまでに仕度を済ませる事にしたが、仕度といってもそこらの女の様に化粧をする訳でもないからたいした暇潰しにはならないだろう。  顔を洗い、髪を手櫛で整え、椅子にかけておいたローブを羽織る。最後に枕元に置いてあった短剣を腰のベルトに留めようとした瞬間、セイルは唐突に不安に駆られた。おもむろに短剣を鞘から抜くと、刃の根本と刀身に小さな赤黒い染みが付いていた。
(しまった……)
 恐らくこの染みは約一週間前に紫髪の女との交戦で付いた物だ。逃走中に一応拭いてはおいたものの、満足な手入れをしている暇とそれに気付く気持ちの余裕が無かった。普段滅多に使わない物なので失念していたのも原因の一つだ。血や脂は剣の切れ味を鈍らせる。長く放置すれば使い物にならなくなってしまう。
 フィクルに剣を預けた時に、手元に獲物がないのは多少不安だからと短剣はそのままローブの下に隠し持つ事にした。だというのに、これではいざという時に役に立たない。もし何か起きたらこの鈍った短剣で戦おうとしていたかと思うとぞっとする。
 セイルはベッドの隣の背負い袋の中から油布を二枚取り出した。
 完全に乾いてしまった短剣の染みを油布で丁寧に拭いてから、もう一枚の油布で刃にうっすらと油を引く。本来ならこの後充分に乾かすのだが、今はそんな時間もないだろう。だが、これで幾分かはましになる筈だ。
 やはり、たいした時間は潰せなかった。他に何かやり残した事を探しているとある事に思い至る。
(そういえば、シルエも戻って来ないな……)
 召喚獣は主の許可と自分の意志さえあれば、いつでもあちらの世界へと還る事が出来る。しかし、あちらの世界に呼び掛けても、探ってみてもシルエがいない。
(ラグナの奴、まだ目を覚ましてないのか?)
 いくら疲れているとはいえ、まる一日あれば起きられる筈だ。それとも何かあったのだろうかと考えた所で、ふとある事が頭を過ぎる。
(何故たかが人間のガキの身を私が案じねばならんのだ?)
 巻き込んだ事への罪悪感かもしれないが、それなら自分なりに責任は取ってあるつもりだった。置いて来た事への不安――これも違う。何も起きないようにシルエを見張りに付けておいたのだから心配する必要はない。
 セイルは、ひとつひとつ浮かんでくる事を整理していったが、終いには言い訳なのか本心なのか自分でもよく解らなくなっていた。そして、最後に残った説明の付かない名残惜しさに、どうにかして取りあえずの答えを与えようとした。  しかし結局、答えは与えられなかった。ドアノブの捻られる音が聞こえたのと同時に、無意識に持っていた短剣を投げてしまったからだ。しまったと思った時にはもうドアは開いている。
『例え何があろうとも、関係のない人を巻き込んではいけませんよ』
 不意に師の言葉が過ぎる。この言い付けを破るのは何回目だろうかとセイルはやけに冷めた気持ちで思った。