Act:025

「セイル、ここにはもう馴れましたか?」
 男は書き終えた書類の束を丁寧に執務卓の引き出しにしまいながら、少女――セイルに問う。
「え、ええ。まあ」
 男の問いに、部屋の隅の椅子で紅茶を啜っていたセイルは曖昧に返事をする。男の様子を伺おうと恐る恐る視線をやるが、目が合ってしまい思わず目を逸らした。
「嘘はいけませんね。馴れてないのならばはっきりそう言いなさい」
 決して強くはないが有無を言わさぬ口調且つにこやかな表情で男は話し掛ける。いつになく真剣なのは人間界に来て半年になるというのに、毎日毎日大賢者の書斎と書庫で本を読み漁るばかりのセイルが心配になっているからかもしれない。
「ですが、オルガ様――」
「どうせ私に気を遣わせるとでも言いたいのでしょう? 子供は迷惑をかけながら成長していくものです。遠慮しないで良いのですよ」
 図星を突かれ、セイルは居心地が悪そうに肩を竦めた。せめてもの反抗として率直な意見を述べてみる。
「私、皆と打ち解けられると思えません。正直、打ち解けたいとも思いませんし 」
「何故ですか?」
「だって、私は人間族とは違うから」
「種族が違うと何か問題が?」
 セイルは反論した事を早くも後悔し始めていた。
 オルガは眉を潜める訳でもなく、批難する訳でもなく、ただただにっこりと微笑みながら尋問を続ける。この男に言い争って勝てる見込みがない事はこの半年で理解していた筈だった。
「文化も思想も違うのに解り合うなんて出来ないと思います」
 しかし、それでも素直に引き下がらないのはセイルのプライドである。
「そうですか…………セイル。ちょっと散歩でもしましょうか」
 オルガは言うや否や、戸惑うセイルを余所に外套を羽織りながら部屋を去る。
「まったく、何をお考えなんだか……」
 セイルは僅かに残っていた紅茶を飲み干すとオルガのあとを追った。

 街中ですれ違った人々は大賢者には挨拶を、後ろの精霊には冷たい視線をちらと送る。
 セイルは刺すような視線の中、俯くどころか微塵も萎縮した様子を見せなかった。毎日のように子供達に冷やかされ、大人達の視線を浴びていれば流石に慣れるというものだ。
 それに、故郷でも似たような視線に曝された事はあった。同じような状況でも同胞から浴びる視線よりも他人からの視線の方が遥かにましだった。

 街の外に出て直ぐにオルガは足を止めた。何か探すように辺りを見渡しているが、周りは野原が広がるばかりで何もない。しいてあげるなら、所々に動物の巣らしき穴があるくらいだ。
 オルガはその中の一つを指差した。
「あの中に手を入れてごらん?」
「何がいるのですか?」
「入れてみればわかりますよ」
 いきなり得体も知れない生物の巣穴に手を入れろと言われて、躊躇しないのは無理というものだ。それでも、セイルは情けない姿を見せるものかと――ゆっくりとだが手を差し込んだ。
 随分深い。セイルは前のめりに肩まで穴に入れながら中を探る。何かが手に触れた、と思った時には目の前に影が迫っていた。
「うわっ!」
 セイルは慌てて手を引っ込めたが、勢い余って盛大に尻餅を着いた。
 その隙に影はセイルの脇を通り抜ける。
「オルガ様! 何かがそちらに――」
 もし魔獣だとしたら、後ろの大賢者が危ない。しかしそれは杞憂に終わった。
「驚きましたか?」
 のほほんとした声に振り返ると、オルガが何かを抱え上げている。大人しく抱かれたのは薄茶色でふさふさした――
「兎……」
「中が見えなのは怖いでしょう?」
 呆気に取られていたセイルを笑うでもなく、オルガは大真面目に聞いた。
「まあ……そうですね」
 セイルは立ち上がりながら尻を叩いた。乾いた枯れ草が数本落ちる。
「今、見えない穴の中に手を入れてみたら兎が出て来ました。しかし、あちらの穴にはもしかしたら毒蛇や魔獣がいるかもしれない。さあ、あなたは手を入れますか?」
 オルガはにっこりと微笑む。答えが分かりきった上での問い。満面の――そして意地の悪い笑み。
「普通は入れませんね」
 オルガはセイルの返答に満足そうに頷いた。
「そういうことです。得体のしれない物に自ら踏み込む人は稀です。あなたは精霊族。彼等からすれば中に何がいるかわからない穴も同然なんです。可愛い兎に出会えるかもしれないけれど、毒蛇に噛み殺されるかもしれない。わざわざ兎に会いたいが為に命をかける物好きはそうそういないでしょうね」
 彼はいつもこうだ。結論を遠回しにして、何か考えさせて、それを見守っている。
「それは私にとっても同じです。人間族はよくわかりません。だから関わらない。兎は縄張りを荒らされるのが嫌いですからね」
 そしてセイルはいつも屁理屈で答える。
「だからどちらかが穴から出る必要があるんですよ。外には敵もいますが、食べ物だってあるし仲間だっています。別に穴から出たくらいじゃ縄張りは変わらない。自分が相手にとって敵でないことを知らせなければ、分かりあうことはできないと思いませんか」
「そして、穴から出た兎は獣に食い殺される訳ですか」
 そうするとオルガは困ったような――それでいて楽しそうな顔をして答えるのだ。
「とりあえず入口まで出てみたらどうですか? 外が危険なら穴に帰れば良い。仔兎はそうやって世界を知っていくものです」
 最後は決まってとびきりの暖かな笑顔。
「いつまでも穴の周りだけの生活では草が無くなって飢えてしまいますよ? ね?」
 セイルの言葉を片っ端から跳ね退けて、頑丈に周りを覆う鎧を壊す。そしてセイルはいつも苦笑いを浮かべながらこう思う。
 『この人には敵わない』と。