Act:018

 魔獣はセイルの右肩に食らい付いていた。セイルは自由の利く左手で右腰の短剣を引き抜き、魔獣の腹目掛けて突き刺そうとした。しかし魔獣はその前に牙を抜き、セイルの胸を軽く蹴って跳躍した。仕留められはしなくても離れさせればそれで良しとする。肉を食いちぎられでもして剣を握れなくなってしまったら、それこそ問題だ。
 肩の傷は案外浅い。まだ戦える――そう思った直後、セイルはあらぬ方向からの痛みに顔を歪めた。背後から笑い声が聞こえる。人を小馬鹿にするような、見下すような不快で甲高い声音。
 セイルは振り返ろうとしたが、左下腹部に走った鋭い痛みに動きを止めた。視線を下げると、紅くぬらりと光る刃が目に入った。
「あら。このくらい避けられるものだと思ったわ」
 女は「ごめんなさいね」などと言いながら、セイルを覗き込んでいた。
 この女のどこに短剣を背から腹へと貫通させる程の力があったというのだろうか。そして、何よりもセイルが驚いたのは女の静か過ぎる気配だった。
 この女を信じ切ってはいなかった。僅かでも不審な気配を感じたら、いつでも剣を突き立てる準備はしていた。だというのにこうもあっさりと刺されたのは、何の不審な気配も感知出来なかったからだ。まるで短剣がひとりでに飛んで来て刺されたようにさえ感じた。
「こんな簡単に騙されるなんて。案外間抜けなのね」
 くすくすと笑いを漏らしながら、女はセイルから短剣を引き抜いた。その勢いでセイルはよろよろと後退し、女に身体を預ける。
「あら、もうお終いかしら?」
 女の嘲笑にセイルは浅い息使いで答えた。
「こう見えても血の気は多い方なんでな」
 セイルは脂汗を額に浮かばせながら、引き攣った笑みを浮かべる。
 女は訝し気な表情をしていたが、はっとしてセイルを突き放した。セイルは倒れる前に剣を支えにして踏み止まり、後ろの女を見た。女の額にも汗が滲んでいる。そして腹にべったりと着いた血。あれはセイルがなすり付けた血だけではない。
「やってくれるわね……!」
 憎々しげな声と共に女の歯噛みする音が聞こえた。セイルの左手に握られた短剣を睨み付ける瞳は怒りに燃えている。血の気が多いのはお互い様といったところか。
「手負いの獲物を近寄らせるなど間抜けも良いとこだ」
 女の唇は白くなる程噛み締められている。それが怒りによるものなのか、それとも痛みに堪えている為なのかはわからない。ふと、女がくつくつと声を漏らした。噛み締めていた唇の端が持ち上がっている。
「まだ元気なようだから、彼等と遊んでいくと良いわ」
 女が指を鳴すと、それに応えるように遠吠えが響いた。それは一つではなく複数の。遠くからも、ごく近くからも聞こえてくる。
(馬鹿な、人間が魔獣を……!)
 セイルは身を翻して駆け出していた。魔犬を相手に逃げ切れる自信はないが、ここにいるより幾分かはましな気がした。
 女が追って来る気配はない。ただ静かな森に、高飛車な笑い声が谺していた。