Act:010
三度に渡る大波がようやく静まった時、立っていられたのは神獣――シルエとリヴァイアサン、そして数軒の家のみだった。ラグナと村人達は腰を抜かし、家は大波の前より二軒ほど多く崩れていた。紫髪の女は流されはしなかったものの、水溜まりの中に俯せに倒れている。セイルはといえば、力を使い果たして地に両手を付いて喘いでいたが、しまいにはその体制すら保てなくなり肘を折って地に伏してしまった。
静寂が村を包んだ。だが、すぐに増悪に満ちた声に掻き消された。
「よくも私の手下共を……!」
紫髪の女は水溜まりの中から幽鬼の如く立ち上がった。顔は泥で汚れ、乱れた髪からは水が滴り、傷付いた身体は本人の意志に背いてゆらゆらと揺れている。
「ほう、あれを耐えるか」
リヴァイアサンの声にはどこか満足気な響きが混じっていた。潰しがいがあるとでもいたげに、にやりと口元を吊り上げる。
リヴァイアサンは尾を高々と振り上げ、紫髪の女に向かって振り下ろす。紫髪の女は怖かそれとも疲労のためか動く事が出来なかった。が、尾は紫髪の女の身体を擦り抜けたリヴァイアサンは舌打ちをして、地に伏すセイルを睥睨する。
「もう魔力切れとは……情けない事だ」
「無茶を言うな」
セイルは喘ぎながらリヴァイアサンを睨みつけた。身体が透けて背後の空が見えている。リヴァイアサンは小さく鼻を鳴らし、どこか遠くを見ながらぽつりと呟いた。
「あいつはこれぐらいでへばったりはしなかった」
セイルは言葉を返すことが出来なかった。リヴァイアサンを引き受けた時から、自分の力が器が遥かに及ばない事など嫌と言うほど自覚していた。
「セイル、しっかりしな」
押し黙ってしまったセイルの脇にシルエが寄って来た。シルエの声は励ましというより叱咤に近く、せき立てるように鼻面を胴の下に潜り込ませてセイルの身体を押し上げる。
「大丈夫だ」
セイルは手を振ってシルエをどけた。大丈夫だとは言ってみたが、本当は意識を繋ぎ止めるので精一杯だった。
「もう一回だ、リヴァイアサン。次で終わりにする」
はいつくばりながらでは些か格好がつかないが、そんなことを気にしている場合でもない。
リヴァイアサンがこちらの世界で形を保てるようにと、セイルが有りったけの魔力を込めようとした時――
「ここは退くべきかと」
紫髪の女の背後にゆらりと人影がまろび出た。
背後に現れた男を見て、紫髪の女はさも憎らし気に唇を噛んだ。
セイルにはこの黒髪の男に見覚えがなかったが、おそらくあの女の仲間だろう。
紫髪の女が舌打ちと共に身を翻す。その瞬間、倒れていたセイルの横を走り抜けた者がいた。視線を上げた先にあったのは銀色の髪。
「ラグナ!」
何を思ったのかラグナは黒髪の男に駆け寄って行った。
「まさか……ディン!?」
一瞬だが、黒髪の男の顔が凍るのがわかった。
「お前、なんで……」
「まさかてめえがこの村に来ていたとはな」
ディンと呼ばれた男の声は目の前の青年ではなく、明らかにセイルに向けられていた。セイルは訳がわからないまま成り行きを見詰めた。どうせ今は動けない。
ディンと呼ばれた男は懐から一枚の丸まった紙を取り出してラグナに投げた。
「ラグナ。その女に関わらないことだ」
「なあ、ディン。お前――」
ラグナが言いかけて口を閉ざした。紫髪の女とディンと呼ばれた男の姿はすでになかった。
「どうやら逃がしたようだな。けりはつかなかったが、我は眠らせてもらうぞ。そろそろ貴様の魔力も限界だろうからな」
リヴァイアサンはうっすらとしか見えなくなっている身体を眺めて嘲笑している。
「ええ。ありがとうございました」
セイルは上体を起こして礼をする。
「次に目覚める時は多少なりともましになっていて欲しいものだな」
「はい……必ずや」
消える直前の言葉は叱咤というより激励に近かった。セイルはリヴァイアサンが消えた空間に向かって再度深々と頭を下げた。
セイルが頭を上げると、目の前にシルエが座っていた。
「じゃあ、あたしも還るよ。セイル、あんまり無茶をしいでないよ」
「ああ、お前もありがとう。助かったよ」
「礼なんて言うんじゃないよ。寒気がする」
シルエは悪態をついた後、照れ臭そうに後ろ脚で頬を掻きながら消えていった。
セイルが意識を手放したのはその直後だった。