Act:000

 夕暮れから降り始めた雨は次第に激しさを増していた。森は身体を揺らしてざわめき、空には稲妻が走っている。雨音に混じるのは大地を叩く足音と己の荒い息づかいのみだ。
 セイルは背後に目をやった。十メートルほど後方に闇に溶け込んだ黒い影が五つ。犬によく似たその獣は魔獣――“闇の一族”と称される生き物の一個体、“地獄の猟犬<ヘル・ハウンド>”である。彼らは数頭からなる群れで生活し、リーダーを中心に執念深く獲物を追い詰めるという。好物は精霊族の若い女――つまり前方を走っているセイルのことだ。
「しつこい奴らだ……!」
 日暮れ前から森を走り回っているせいで、膝丈の革靴は泥を纏って重量を増していた。その上、数日前に敵と交戦した際に負った腹と肩の傷が開いたらしく、包帯からじっとりと血が滲み出している。おかげで時を追うごとに一歩一歩、確実に遅くなっているのが自分でもよくわかる。おまけに人間界の空気は埃っぽく、精霊族であるセイルには合わなかった。
 セイルは走りつつ、傷口に手を当てた。精神を集中させると淡く青い光が掌から溢れ、身体が少しだけ軽くなる。この“精霊術”と呼ばれる魔法はあくまで応急処置であり、長くは持たない。セイルは気力を振り絞ると速度を上げた。
 雨が嵐と化した頃、セイルは歩調を緩めた。もはや体力の限界が近く、普段から身につけている細身の長剣ですら重く感じ初めていた。
 “地獄の猟犬”は待っていたとばかりにセイルを取り囲むと、舌を出しながら荒い息を吐いた。大きく開いた口腔と獲物を睨む目は血で染まったように赤い。しかし、セイルは臆することなく腰に下げた剣に手を掛け、重心を前に移動した。
 “地獄の猟犬”が飛び掛かろうとした瞬間、セイルは腰の長剣を一閃した。間髪入れずに手首を反してさらに一太刀。一匹は横跳びに斬撃を交わしたが、不意打ちを喰らった二匹は痙攣したあと動かなくなった。
「そう簡単にやられはせんぞ」
 セイルは口の端を吊り上げた。幼い頃は品がないとよく言われたものだ。だが、そんなことは今更どうでも良い。セイルは戦士なのだから。
 残った三匹は怖気づいたのか、顔を地面に擦らんばかりに下げて低い唸り声を上げている。このまま畳み掛けようと剣を振るおうとした時、茂みから新たに “地獄の猟犬”が飛び出してきた。セイルは咄嗟に身体を横に投げ出し、地面を転がって間合いを取った。逃げ遅れた長い蒼髪が数本宙に舞う。反応が少しでも遅れていたら、脇腹に風穴が開いていたことだろう。
 ふと、“地獄の猟犬”が天に向かって吠えた。数秒後、森の奥からも遠吠えが聞こえた。豪雨の中でも己の存在を主張し、森をも震え上がらせるかのような声。しかも、かなりの数である。
「くそっ……!」
 セイルは舌打ちをすると剣を握り直した。腹と肩の包帯に広がる血は今だ止まる気配がない。逃げたところで追い付かれるのは時間の問題である。助かる方法はただ一つ――全ての魔物を倒すこと。
「邪魔をするな!!」
 戦士の咆哮に応えるように夜空に雷鳴が轟いた。